掘止の美人
記事編集:尾崎を語る会会員
上杉太郎
「ほれ、スケート場の南をぐるっと曲った所の道ばたに、長い家があるがなー。あそこが掘止というて昔しゃ塩田の中水尾十番というのがあったところや。古い古い話よやのお。あとでそこに浜の労働会館が建ったんやが」
ミー坊の歩く土手は梅雨の湿っぼい雫を含んで、伸び放題の草が通る人も少ない道筋に、思い切り背伸びをしていた。
まだ埋め立てられないで、水をはった沼地がある。
水の中に四、五本組み合わさっている姿を見ても、この地に住んだこともない者にとっては、それが塩田跡だと想像することは殆ど不可能であろう。
おじやんにとってこの道は五十年余りも通った、塩づくりの道であった。
「まだ、おじやんが子どものころ、ここにけつねが出るゆうて……そりゃ、美人の娘に化けるけつねで。」
「けつねって何や、化けるって」
ミー坊は、引いていた手を緩めると下から、おじいの顔を見上げた。
「けつねちゅうのはな、きつねのことや。尾崎・御崎にゃけつねの話がぎょうさんあるがの。中でも掘止のけつねちゅうのは、そりゃー美人に化けるのが上手で、一等の化け美人じゃったそうな。」
おじいは、遠い昔の恋人にでも逢うような懐かしい目で水面に視線をなげた。
ミー坊は芒の元にころっがている小石を掴むと、いたずらっぽくその小さな手で水のなかへ投げ込んだ。
小石は「チャポン、チャポン」と水玉を跳ね揚げ、水面がぐらぐら揺れてその奥に、美麗に着飾った娘の姿がふうっと写しだされて来るのを見た。
おじいもきっと同じ水紋の中に、可愛い娘の姿を想像したのであろう。
年老いた目と、幼い澄みきった瞳の四っは、水面から離れなかった。
寸時沈黙の二人……ミー坊はもっと、けつねの化けた娘の事が聞きたかった。
「おじい、およめちゃんに化けたけつね見たことあるん。」
ミー坊は、おじいがきっと「おお見たとも」と勢い込んで話すだろうと期待して、小さな体を一杯に伸ばし、顎を釣り上げておじいの口元をとらえた。
「おじいのおとやんの時は、よう出たちゅうこっちゃ」
雨の降る夜、御崎の方からの帰り道、どこからか下駄音が近づき、目の前に娘さんが、雨に濡れながらひとり歩いて行くのとすれ違ったそうな。
いない、今すれ違ったばかりの娘の姿は見えない。
あれほどはっきりしていた下駄音も聞こえない。
ゾッ、ゾッ…と背筋を冷たいものが走るのを覚え、一目散に駆け出したそうな。
そしてな、その日から五日後、また同じ頃、再び下駄音を聞いた。
今度こそはっきりとたしかめてやろう。
前にこの道であったときは、ふいの出会いだったので、驚いたも、驚いかないも、どこをどんなに走って帰ったかわからなんだが、今度は腹を据えてよくたしかめじゃならん。
目をこすって、暗闇の中をじっとにらみつけるようにしながら足を止めた。
下駄音は規則正しく近づいてくる。
カラリ、カラリ、コロロン、カラリ、雨の中を歩く湿っぽい音ではない。
玉でも転がしているような軽い、それは気持ちよさそうな足取りである。
その音は、すーっと脇を擦り抜けるように過ぎようとする。
伏し目がちに、うつ向き加減。その顔は夜の暗さの中でも白っぼく浮き出るだけの色艶。
雨に濡れた髪は両頬になびき、提灯の明かりがあやしく照って一層白い。
真っ白な顔、べっとりと両頬に滴る髪の毛端から、今にもぼとりと、雫がこぼれそうである。
生ぬるい風があたりを包み、すーっと横切るように体を浮かせて、暗がりの中の美女が去ろうとすると、今まで、小刻みに揺れていた蝋燭の炎が、一瞬長い線を光らせるとパッと消えた。
暗い、例えようのない暗さの中で、今見た美人の濡れた黒髪から滴る雫のような雨が、ボタリ、ボタリ、ボタリと降りだした。
男はへなへなと、その場に座り込むと、自分では何をしようにも、魂を奪われた体は自由に意志を表現しない。
ただポカンと口を開けて、目を暗闇に見据えているだけ。
時間の経過もわからず放心して、けつね美人と逢うのを楽しみ、擦れ違いざまじっと度胸を据え、提灯を突き出して、眺めた豪の者でありながら、けつね美人の去った後、体の芯をぬかれようとは。
けつねが、この男の血を吸っていってしもうたんか。
次の日から男はな、ぼけーっとしてただ、高空を仰ぐだけの日々を重ねるだけであったそうな。
おそろしい物を見たいちゅうのはようわかるが、ばかなことをしたもんじゃ。
じいの話はここで、結ばれた。
じいの話を聞きながら広々と、埋め立てられた塩田跡を眺め、昔々淋しい道のあったことを、想像しおそろしく震えていた小さな手の中に、冷たい汗がじんわりと滲んでいた。
きれいに整備された近くの道を、大型トラックが去っていく。