やぐそ
記事編集:尾崎を語る会会員
上杉太郎
《野糞》(野原でうんこをすること)
「やぐそ」このことばの裏に私たちのおじいさんたちが、自然と闘い、厳しい労役に歯をくいしばって来たことが、隠されていることを伝えましょう。
尾崎のけつねに化かされるような滑稽な話しから離れて、私たちの祖先が闘って来たあとをたずねてみましょう。
赤穂の里をゆたかに流れる千種川は、その昔、赤穂のとの様としておはいりなった浅野さんの頃、高雄の切山にずい道を通し、用水路を掘って、城下の飲料水と、城での必要な水を確保していました。
尾崎川と熊見川の別れるところには井堰がつくられ、石畳を敷き亀甲井堰と呼ばれていました。
尾崎川と熊見川の別れるところには井堰がつくられ、石畳を敷き亀甲井堰と呼ばれていました。
江戸時代からの赤穂は、塩を増産するため松の木を焚いていましたので、どんどん、松が切られていました。山肌の見えた赤穂の山に降る雨は、やがて川の水を増し、洪水をおこすことが度々ありました。
明治に入ってからの赤穂は、奇数の年にはかならずといってよいほど洪水に見舞われ、明治十七年、明治二十五年の洪水はひどいものでした。
七月二十三日のことです。
今日も雨。千種川上流一帯に降り続く雨は、二十四日には、この里を洪水にし、赤穂はじまって以来の被害を与えました。
ある記録によりますと、死者九十余名、流失家屋三千五百戸を余ったという。
尾崎川の上流の亀甲井堰も切れ、倒れた家は屋根だけを、流れの上に浮き沈みさせて下流へ流されていきます。
ある記録によりますと、死者九十余名、流失家屋三千五百戸を余ったという。
尾崎川の上流の亀甲井堰も切れ、倒れた家は屋根だけを、流れの上に浮き沈みさせて下流へ流されていきます。
二十五日、二十六日、やがて水も引き、あとに現われたのは肥沃な田の上に、一面に重ねられた砂利(瓦礫)ぐざっとえぐり取られた堤防の穴、人々はなすすべもなく、ただぼんやりと台風の爪痕を眺めるだけでした。
二十四日といえば、浅野内匠頭長直公のご命日、赤穂の人々は公の遺徳をしのび、慰霊と供養のため、いろいろな行事をしておりました。
二十四日という日には、毎年のように、激しい雨か洪水でしたので人々は、《内匠さんが近付いた》といって恐れていました。
大きく口を開けた堤防をそのままにしておくことは、次に襲ってくるだろう台風にまた、大きな被害を蒙る。
台風のあとの改修工事に参加したと言っても、むりやりに参加する強制労役であったらしい。
台風のあとの改修工事に参加したと言っても、むりやりに参加する強制労役であったらしい。
来る日も来る日も、朝は西の空にぼんやりと見える月を仰ぎ、夕方にはぼっかりと東の空に月が明るく照るまで、それはそれは長い長い一日の労働でした。
疲れて、休もうにも休憩時間すらない。
朝早くから土を掘り運んでいる体は、昼前になると早力尽きる程でした。
午後の仕事も夕闇の迫るまでは何度か腰をのばし、まだ終らないのかと空腹をおさえて時の立つのを待っていました。
朝早くから土を掘り運んでいる体は、昼前になると早力尽きる程でした。
午後の仕事も夕闇の迫るまでは何度か腰をのばし、まだ終らないのかと空腹をおさえて時の立つのを待っていました。
何とか休みがほしい。……と言って、理由なく休むことは許されない。
ところが誰かが便通を模様して近くの凹地にしゃがんでいるのを見て《これだ》と。皆もただ一つの逃げ場を発見した。
疲れると《糞をする》と言って草むらの凹地へ走りしばらく休んでいた。
体を休めるにはこれ以外の道はなかった。
便をすると言えば誰も咎めない。
皆はこれを《やぐそ》と呼んだ。
体を休めるにはこれ以外の道はなかった。
便をすると言えば誰も咎めない。
皆はこれを《やぐそ》と呼んだ。
今、架かっている新大橋から唐船までの東岸の堤防を大外新田という地名だが、人々はここをいつの頃からか《やぐそ》と呼んで、苦しい昔の労役を話しついで来た。
千種川の氾濫を防いだ裏に人々の汗と《やぐそ》がしみ込んでいるのだろう。
千種川の氾濫を防いだ裏に人々の汗と《やぐそ》がしみ込んでいるのだろう。