金光山・如来寺の由来

記事編集:尾崎を語る会会員

金光山如来寺の由来
八幡 昭海

現在の天台宗金光山如来寺の由来についてお話します。

今は昔、室町時代に赤穂に寺がありました。室町時代赤松の流れの人が尾崎に住み着いた云々の話しがありますが、その人たちが寺を作っていたかもしれませんが、はっきりしたことは判りません。
その寺を池田輝政配下の、垂水半左衛門が当地に来て、慶長一〇年(一六〇五)に八幡宮を現在地に創設し、別当天台宗金光山神宮寺として再建したとされています。

住職は源清。別当とは、管理者の意味で当時神仏混淆時代寺院が神社を管理しておりました。赤穂八幡宮は藩の守護神として祀られ、正保二年(一六四五)浅野長直公が赤穂に来て、三〇石の扶持を貰っており、その時の住職は円盛、それ以降は比較的よくわかっております。

元禄事件の時の住職は円快、寛保二年(一七四二)前天台座主の「八幡宮」の書を頂戴しており、書は当寺にその額が鳥居に掲げられています。
前天台座主一品尊祐親王は伏見宮那永親王の皇子で四回天台座主になられており、三回目と四回目の間に書かれたもので前が着いております。

神宮寺の一二世の円海師の時、弘化二年(一八四五)法華経千巻の寄贈を受けその記念塔が長年さんの碑の登り口に有ります。又、八幡宮西側の燈明台を天保二年(一八三一)に寄贈しております。

その次の住職恵成さんの時に明治維新があり藩幕体制が無くなり、パトロンの藩が無くなり、又、明治二年に日本は神国、天皇は神、天皇親政の時代となって、神仏分離令が出て廃仏毀釈運動が起こります。

八幡宮の別当寺院の神宮寺は、廃され僧が追い脱されました。同時に武士階級を檀家としていた禅宗系の寺院もパトロンを失って多くの寺がつぶされました。

恵成さんは南宮山の麓に小屋を作って還俗して引きこもったそうですが、当時空き家だった現如来寺のこの本堂、真言宗の観音寺を譲り受けて、改めて如来寺とし創立させましたが、あまりの激変でかその年の一二月死去されています。

以来、檀家であった藩を失ったまま檀家の無いままに如来寺として存続しております。

入り口の「神宮寺」の碑は、今の鈴木さんの四代前鈴木徳兵衛さんが昭和四年に寄付して下さったものですが、昔ここが神宮寺であったわけではなく、住職は今の宮司さんの住居尾崎郵便局の裏の方に住んでいましたので、その辺を「 別当(べっとう)」と呼ばれておりました。

また、おせどの横を観音堂というものの観音寺に絡んでつけたものと思われます。

ちなみに、今根来さんの住居の所は寺山、このへん一帯龍馬山観音寺、龍王山専福寺と真言宗のお寺だらけで専福寺が下におりて浄土真宗の宝専寺になったそうです。

普門寺は、昭和三〇年頃加里屋から移ってきたもので、昔の尾崎の村長などをした山本家の別荘だったそうです。

神仏混淆の時代、八幡神は応神天皇で仏は八幡大菩薩、そして阿弥陀如来なのです。これを本地垂迹説と言い、今でいう変身です。

仏教側から言うと、インド起源の菩薩諸天が神となって日本に現れたもので各地の神社の神は仏が仮の姿としたものです。

明治になってこの説は間違いであるとされ、神仏分離が行われたのです。ということで如来寺の本堂は、八幡大菩薩そして阿弥陀如来です。合わせて近年薬師如来を祀る薬師堂も作っております。

神仏を一緒に祀る日本古来の習性を再び見直すべく本年、仏教側と神社側が歩み寄って、現在の天台座主・東大寺貫主・生田神社宮司・石清水神社宮司らが中心となった運動が行われています。

八幡宮から分離する時に、寺と資産の一部を分け合ったものを一昨年四月に「尾崎を語る会発足一周年記念」として八幡宮社務所で展示しましたのでご覧いただいた方も多いと存じます。私も父の後を継いで住職になって三〇年、檀家のない寺の維持に努めております。

一〇年前東京の会社勤めから帰り、一〇年程神戸の寺の兼務をしておりました。一昨年来高雄の神護寺も兼務することになり、その再興すべく考えております。

檀家はありませんが、昔宝専寺に墓地が無かった関係か、江戸末期から昭和にかけての墓地が裏にあります。本年三月尾崎公民館発行「ふるさと尾崎」№四に、神宮寺の歴史他の記事が有りますので、興味のある方はご覧下されば幸いです。

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