秦氏と妙見信仰

記事編集:尾崎を語る会会員

秦氏と妙見信仰

八幡 昭海

一 妙見信仰と秦氏の水上交通

(一)日本霊異記を中心にして

妙見信仰とその土地
大和国髙市郷波多の里… 現在の明日香村畑又は、髙市郡髙取町あたり出身の
呉原忌寸名妹丸がここの出身、呉原の姓は太田亮氏の姓氏家系辞典では倭漢の族であるが、倭名類聚抄によれば、波多は秦で秦氏の住んでいた所で倭漢氏の呉原忌寸名妹丸もそこに住んでいた。その呉原忌寸名妹丸の話である。

呉原忌寸名妹丸は髙市郷波多の里人である。魚を獲るを業として、延暦二年(七八三)の甲子の秋の八月十九日の夜に、紀伊国海部郡の伊波多岐島と淡路国との間の海に到りて、網を下ろして魚を捕っていた。三隻の舟に九人が分かれて乗っていたら、大風が来て波が三つの舟を襲って八人が溺死した。名妹丸は海に漂っていたが、心に妙見菩薩を念じて、我が命を助けてくれれば妙見の像を作りますと祈った。海に漂って力尽きて明け方に蚊田の浦の草の上で気がついた。

舟は沈み波に漂ったが妙見の像を作ることで命が助かったということだ。秦一族の居住する所にあった妙見信仰を同じ所に住む呉原忌寸名妹丸も同じ信仰を持っていたのだと思われる。
大和髙市郡に住む秦氏が妙見信仰を持っていた時、赤穂市坂越の大避神社や宝珠山妙見寺の存在が気にかかる。大避神社は秦氏の本拠地が播磨の坂越の大避神社である。
(田中 久夫著 秦河勝と播磨の坂越より)

そして宝珠山妙見寺は空海の師の観操が妙見を刻んだ(薗田香融、古代仏教に於ける山林修業とその意義)との伝説、江戸時代の「播磨鑑」「播磨万宝知恵袋」にも行基開基で妙見は勤操僧都の作であると記されている。
勤操は「元享釈書」巻第二によれば「姓秦氏和州髙市郡の人とあって、前にも記したように大和国髙市郡に秦氏関係の人の居たことになる。宝珠山妙見寺の住職さん(伊藤 正幸師?)のお話では奥の院に明星池があり、ここで行基は虚空蔵菩薩を刻んだ。そこに安置されている虚空蔵菩薩の前で虚空蔵菩薩を祀る求聞持法を修した。そのお礼に虚空蔵菩薩を祀る石塔と妙見菩薩を石に刻んだとのことである。勤操はこの地に来るまでに妙見菩薩の存在を知っていたことになる。

大避神社、生島、妙見寺とからめて秦氏と坂越の深い関係がうかがわれる。(八幡記)

(二)妙見信仰と秦氏 

日本霊異記の説話より妙見菩薩とハタの地名の関係のあるところからその例を示す。

一 能勢妙見
摂津国豊島郡秦上郷、秦下郷、今の池田市巨大古墳があり、秦氏のものとされる。
アヤハトリ、クレハトリ、綾織、呉服と訳され、呉(中国)より坂上氏の始祖阿知使主、都加使主らによって朝鮮経由日本に来た織物を作り染めて仕上げる技術のある女性集団のことで、新修池田市史によると阿知使主、都加使主を祀るにあたり、専従の秦氏の社に併祀して自族の織姫伝承の神としたと。
今の野瀬妙見は多田氏によって祭られたとするが、元は秦氏が祭ったもの。

二 星田妙見
大阪府交野市星田(河内国茨田郡幡多郷)星田妙見宮(小松神社)の略縁記によると、空海(勤操の弟子)が虚空蔵菩薩求聞持法を修した所(坂越妙見寺と同じ)星が下がって来てここに妙見菩薩を開眠したとある。(妙見=北極星)
この現交野市星田は西隣が寝屋川市、ここは秦、太秦、川勝などの町名が残っており、倭名類聚抄の河内国茨田郡幡多郷に当たる。河内名鑑に「秦村、太子の臣下秦川勝此所に有」と記載あって、現在も川勝山太秦寺や秦河勝の墓と伝えられる五輪等がある。
茨田郷という名は、古事記の仁徳天皇条に「秦人を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田三宅を作り丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り又、難波の堀江を堀りて海に通し又、小椅江(をばしのえ)を堀り又、墨江の津を定めたまいき」とあることから土木工事に関わった事、秦氏の子孫が姓を変えていたとの記述もある。

(三)秦氏が妙見菩薩を信仰した理由

滋覺大師(円仁)の入唐求法巡礼行記(マルコポーロの東方見聞録より先に書かれた中国旅行記)に中国への船旅の折に海が荒れた時、観音、妙見に祈った所、風が止み命が救われた云々。

平安初期には航路の安全を妙見に祈ったことが記されており、阿姿縛抄には妙見には風雨順時の功績ありと、妙蓮華経普門品通称観音経に述べられている。

航路の安全を祈る対称として秦氏が妙見信仰をしたかは、秦氏は機織り、鉱物採集、酒作りなどをしたが、これらを取引するには運送が必要で各地に住む秦氏が分担した。
それには舟の利用が必要であった。日本霊異記にも難波(大阪)は大和川、淀川を通じて大和や京とつながり瀬戸内海を通じて、山陽道、南海道、西海道とつながっている。そして朝鮮、中国ともである。

赤穂坂越の妙見寺、大避神社、生島と秦氏出身の勤操(空海の師)秦河勝とつながりのある所で、今も一〇月一二日(今は一〇月第二日曜日)に大避神社から生島への舟渡御が行われている。
今は妙見寺は参加してないが、かっては大避神社の社僧として関わっていた(神仏分離令によって分れた)。航海安全の信仰のもとは妙見寺であった。
(野田美代子    神戸女子大平成一一年卒業論文)

大避神社には船絵馬や船主の寄贈の石燈籠がある。
西国から船が明石海峡を越えるのは当時大変で、室津、飾磨の東は風も強く海賊も出た。行基菩薩が設置した五泊地として河尻、大輪田、魚住、韓、室があげられるのに対し、赤穂の坂越は天然の良港であるのに公的機関がなかったとされている。(大避神社が延喜式に記載なし)

平城京の時代、西国からの物資は難波に来て大和川を上り、途中から陸路又は、川を行ったと考えられるが、所々に妙見菩薩を祀る社と秦氏の居住の跡が見られて、秦氏が西国から平城京への物資の輸送に関わり、守護神として妙見を祀ったことが見られる。

長岡京から更に平安京になるにつれて、難波から淀川又、大輪田(尼崎)から神崎川を上り、途中淀川につなげて輸送した。その方が近く流れも緩やかであった。
別に能勢の山に住む神が猪名川の河口迄来て能勢の山の杉の木で神功皇后の三韓征伐の舟を作った話があり、舟を作ったのは秦氏、能勢妙見とつながっている。

神崎川から平安京に入る入口、桂川、宇治川、木津川の岐点にも妙見菩薩を祀る社がある。(妙見―北極星…方向の指針の星で実際的にも航行の安全に役に立つもの。)

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