俊恵師の話

記事編集:尾崎を語る会会員

俊恵師の話

八幡 昭海

一 神宮寺/如来寺

赤穂八幡宮の創建は浅野時代とされますが、浅野初代長直公により藩の守護神とされ、
三〇石余の扶持が与えられ、以来藩体制の中で赤穂近郊を氏子として尊崇を集めておりました。当時は、神仏習合の時代で、神社の管理は僧が行うのを常として、神宮寺がその任に当たっておりました。所謂、別当職です。

明治維新によりすべての神社から僧は追い出される、神仏分離令が出されました。神宮寺もその例に漏れずに、当時の住職は失職しましたが、改めて檀家のないまま天台の末寺として、山号はそのまま金光山の如来寺を作り現在に至っております。神宮寺の碑は、それを記念して作られたものです。今回は、この神宮寺時代のお話です。

二 俊恵師と松居家の出会い

神宮寺には、当時住職の他何人かの僧が居た模様ですが、詳細はわかりません。寛文四年九月一六日(一六六四年)赤穂義士の事件の前の時代です。

神宮寺の僧俊恵師、(住職は円順師で義士事件はその次の住職円快師の時です。)が諸国巡礼し喜捨を求めて、七三両(一両一〇~二〇万円相当一〇〇〇万円余りか?)と所持金二両二歩の入った財布を、滋賀の多賀大社に参詣し武佐駅を立ち、鏡山と寺山の間の小堤村と申す村のはずれの茶店で休んだ所に置き忘れ、一〇丁ほど歩いて気づき慌てて四~五丁引き返した所、向こうから天秤棒の先に編傘を下げ、その前に財布を下げて歩いてくる人が居るではありませんか。

思わず俊恵さんは「その財布は私のです。あなたはどなたですか。」と呼びかけたのです。荷物を持った人はたしかにこの財布は四~五丁後の所で拾いました。あなたのものならお返ししますが、ここは旅の途中大津の宿に着いてからにしましょうと一緒に歩いて大津の宿に入りました。

拾った人は「私は貧しい者で故郷の神社の神託で僅か一貫文の米を売って近江の産物の編傘を仕入れて大阪から播州に向かう所です。「あなたは大金をなくしてお困りでしょう。」と言って財布を返しました。俊恵師は感激して心ばかりのお礼をしたいとして一〇両を渡そうとしましたが、「私はお礼がほしくて拾ったのではありません。拾ったものをそのままとってしまうことも出来たのですが、私はそのようなことはしません。」と押し問答になりました。

拾った人は、「私は江州(滋賀県)神﨑村衣笠山麓村の久治郎と申します。」「今年四六才です。」「今は貧しい者ですがこれから一生懸命働くつもりです。あなたは僧ですから私の家の子孫繁栄、命長久を祈ってください。これにすぎることはありません。」と言いました。俊恵師も納得して、これはたやすい事として引き受けて二人は分かれました。

俊恵師はその後、寺に帰り毎年九月十六日には久治郎家の永代護摩供養をして一家の子孫繁栄、命長久を祈り、近江の長寿寺に移ってからもそれを続けたと思われます。
財布を拾った久治郎は松居久右衛門慶心と称し近江商人の一人として大成しました。慶心は晩年家督を息子に譲り高野山に籠もって貞享元年(一六八四)に亡くなられたと伝えられています。

三 後日談  明治

天保四年(一八三三)事件から二〇〇年近く後に、六代目松居久右衛門が高野山に行き初代のことを調査しましたがよくわからなかったそうです。同じ頃に近所の長寿寺(東近江市池之脇)で俊恵師の始めた法要が今でも松居家のために行われていることがわかりました。
明治一五年(一八八二)一族の松居吉蔵が再び高野山に行き調査した所、熊谷寺に慶心翁が残した、翁の行商の絵などが存在していて種々のことがわかりました。その年は慶心翁の二〇〇回忌の年だったそうです。
これらのことは神宮寺から神仏分離で如来寺には全く伝えられていないことを残念に思った松居家の人々が、慶心翁の絵の写しを如来寺に届け合わせてことの由来書いた文書を作り当時神宮寺の僧であった俊恵師の顕彰碑を作ってくれました。寺はこのことを知って松居家の墓を作り位牌を作って松居家の供養をすることにしました。明治二三年から二九年の間のことで住職は蓮海師でした。

四 後日談 昭和/平成

昭和の初めの頃、私の父が住職でしたが、毎年松居家からいくばくかの布施が寺に送られて来ていましたが、戦争が激しくなり送金が途絶えてしまいました。父は戦後の混乱の中松居家も没落してしまったのではとして打過ぎてしまいました。

平成三年一月三日朝、突然の来客で家内が応対すると「マツイ」ですと妙齢の夫人が申されましたが、家内はとっさに俊恵師の松居家の人とは思わなかったのです。玄関に出てみると高齢の上品なおばさん一行で「私は昔五個荘の松居、今は京都に住んでおります。女学生の時、昭和四年に父に連れられて訪ねて来たことがあり、ウロ覚えで来ました。建物は変わっておりましたがお墓や近所の風景は昔のままです。」と感激してお帰りになりました。ご子息が川崎製鉄(現在JFE)の水島勤務でそのお帰りのお立ち寄りであったよしで、戦後は自宅(京都)を進駐軍の宿舎に取り上げられたりして苦労されたとかでした。その後ご兄弟の方が見えたりして、未表装の文書の整理などにお金を拝受して交流が始まりました。

そのおばあさんは、松居 鉄(てつ)さんと申され、平成一一年九三才でなくなられたと伺っております。

五 今日の教訓

江戸時代一六六四年赤穂義士事件の前に始まる物語、ご縁か今に続くことになります。その中にながれるものは「勤勉」「倹約」「正直」「堅実」「自立」の精神、報恩の心のつながりにあることに深く思いをいたす所であります。
近江商人の精神の現れの一つのお話です。「三方よし」売り手、買い手、世間がよい意。

六 附説

 “東近江市近江商人博物館企画展”

平成二二年八月九日 東近江市近江商人博物館 主幹 林 純氏 突然の来寺があり、近日近江商人博物館にて秋季企画展に松居家のことも展示したいと資料調査に来られました。

平成九年に当時の五個荘歴史民俗資料館長入谷誠一郎氏が調査に来寺あり、その年の秋に五個荘歴史民俗資料館を訪問して以来の五個荘の関係の方との交流でした。

林主幹に資料をお見せしたりしました。その一部は九月一四日からの企画展に展示されると聞いております。入替りに展示会のご案内を拝受しました。東近江市の長寿寺ともども如来寺も協力とされています。

十一月九日午後近江商人博物館訪問、館長は不在でしたが、八月にお会いした林主幹に迎えられて、種々お話を伺い又展示の一部の写真、資料を拝受、展示に至るお話を伺うことが出来ました。

一 展示品の説明とその写真について

イ 如来寺にある俊恵師の碑の拓本、明治二九年建立の折にでもとったものでしょうか。五個荘松居家に屏風に表装して残っているものです。

ロ 松居久治郎像。長寿寺にのこるもの。如来寺にあるものより古いがよく似ており、如来寺のものは箱書きにある通り、明治二三年八月高野山熊谷寺の僧観淳の記述のように、明治一五年に高野山熊谷寺で調査してわかって写して如来寺に来たものです。五個荘の江商人博物館にある松居久治郎行商図が本当の姿で、長寿寺や如来寺にあるのは正装で行商の姿ではないそうです。

ハ 俊恵法師消息文は、当時の状況を俊恵師が書き残した原文で長寿寺蔵のよしです。これを清書したものが如来寺にありますが、明治になってからのものでしょう。長寿寺のお話では俊恵師は長寿寺の住職とはならず高位の僧であったよしです。

二 近江商人余談

近江商人博物館の林主幹から種々お話を承りました。

従来栄えた近江商人も現在は衰えており、大成した堤家(西武)旧宅が残るのみで、昭和になって堤家は事業家として、より政治家のイメージが強いよしです。特に戦後から殆どの所が倒産したりして、西川家はフトンで残っていますが、大阪と東京が本拠、伊藤忠も当地にはなにもないよしです。

幕藩体制がつぶれた折、多くの豪商が藩に融資しており貸し倒れで倒産した所も多かったよしで、時代の変遷は如何ともならなかったとの事です。

五個荘はかっては豊かな村でしたが、近年の町村合併でこの近辺七ケ町村が八日市市と合併、経済基盤のない八日市市であったので財政は極めて厳しいとのことです。

如来寺については、ご承知の俊恵師の碑が明治二九年に設立、大正一一年に松居家の墓が、久治郎こと慶心翁の位牌も碑の設立に合わせて作られており、本堂に安置されております。長寿寺ともども新年には合わせて読経しお祈りしております。

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