堀部安兵衛武庸の話

記事編集:尾崎を語る会会員

堀部安兵衛武庸(たけつね)の話

八幡 昭海

過日、新潟県新発田市より新発田ロータリークラブ、嶋田次郎八氏ご来遊有り。新発田タイムスに連載の「堀部安兵衛こぼれ話(遠藤利信著)」を拝受しました。その中から要約して書いて見ました。
堀部安兵衛は義士の一人として、義父の堀部弥兵衛と共に有名ですが討入りの前、堀部家に入る前の、高田馬場の仇討ちで高名をはせその縁で堀部家の迎えられた話も有名です。

中山家について

堀部安兵衛は「中山安兵衛応庸(まさつね)」と称して寛文十年(一六七〇)新発田藩士二百石、中山弥次右衛門の長男として生まれたが、生まれてすぐ母の死去、代わり育ててくれた母方の祖母も三才の時に死去、更に一四才の時父が藩の建物の火災の責任をとらされ浪人になりその後死去、母方の祖父も一六才の時死去し姉の世話になったが十九才位で単身江戸に出て剣客・堀内源左衛門の門に入って剣術を学び仕官の道を求めた。
紆余曲折あって、堀内道場で知り合い、親子ほど年は違っていたが菅野六郎左衛門と叔父甥の契約を結んだ。之は、気が会ったより実父を失っており仕官の折に寄親(身元引受人)が必要だったのである。
高田馬場は今でこそ繁華街であるが(そう言えば渋谷も新宿も江戸のはずれの田舎であった。)(八幡注)当時は弓術や馬術の訓練場であった。

高田馬場の決闘は諸説あるが、安衛門と叔父、甥の約束の菅野が酒の席で同僚の村上庄左衛門と口論となり、その場は治まったがこれを遺恨とした村上が菅野に果たし状を突きつけたことに発する。

武士は意地が道徳の中で重きを成していた時代、受けてたつことになり、元禄七年二月一二日、午前十時。菅野が高田馬場に行くについて、菅野の若党と草履取をつれた所に安兵衛が合流との説と、菅野の妻から安兵衛が聞いて追いかけたとの二説がある。

いずれにしても、安兵衛は義によって参加したのである。安兵衛は自宅の牛込竹町から高田の馬場への途中、小倉屋と言う酒屋で五合桝で冷酒をひっかけたと言い、今も小倉屋は現存してその五合桝を家宝としているとのこと。しかし史実家の間では安兵衛は下戸で酒は飲めなかったという。

高田馬場に着いた安兵衛は襷がないので縄を探していたら鬼子母神祀りの母娘がそれを見て娘の「しごき」を投げ与え、それが縁で結ばれるとのツクリ話もある。

菅野、安兵衛四人に対し村上側は七~八人。大立ち回りの上、村上とその弟ら三~四人を殺したが菅野も瀕死であり息を引き取ったとのことである。講談などで一八人切り取ったとのことであるが、事実は違うのである。刀も講談で言う“関の孫六”でなく関物としても寿命作・新刀二尺六寸(七八.八㎝)だったらしく、又小刀は近江守法城寺正弘と刻銘された長さ二尺六寸(七八.八㎝)幅一寸五分(四.五㎝)というダンビラだったという。

何れにしてもこれで安兵衛の名が日本中に知られるようになった。この決闘の折に敵の切っ先が安兵衛の帯を切り着物の前がはだけて苦戦したので、吉良邸討入りには帯の芯に鎖を巻かせたということである。堀部弥兵衛金丸(やひようえあきざね)という武勇で聞こえる老人から養子にと迎えられることになる。安兵衛は中山家を継ぐので勘弁してほしいと断ったが中山姓で良いからとの申出で決意して名を「堀部安兵衛武庸(たけつね)」となった。

刃傷事件で浅野家が倒れた時、新発田藩主より、当藩で扶持したいとの申出があるが断って、父弥兵衛と共に四七士の主力として活躍してその名を万世に残すことになった。討入りの後、大石主税と同じ松平藩預けとなった。

安兵衛が幕府に出した親類書には、長男の安之助や特に世話になった姉キンの名はなく、後難を恐れて書かなかったものであろう。安兵衛が長岡出身とか会津出身の説が誌上で有名学者によって書かれているのは残念である。

父中山弥次右衛門が新発田藩を浪人したのは、元和三年(一六八三)安兵衛の切腹は元禄十六年(一七〇三)三四才であった。生誕は寛文十年(一六七〇)で父は二〇〇石取りで一三才までは弐百石取りの侍の子として育てられたことであろう。その他諸資料(略)を見ても新発田出身は間違いがない。

末裔 安兵衛より八代目 堀部忠彦氏東京三田で石材商です。
安兵衛を偲ぶ「武庸会」大正二年(一九一三)創立、一二月一四日は義士祭をしているそうです。

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