「大石良雄」夫人、「理玖」「おりくさん」

記事編集:尾崎を語る会会員

「大石良雄」夫人、「理玖」「おりくさん」

八幡 昭海

平成二四年尾崎歴史講座で「大石良雄」夫人「理玖」「おりくさん」の話をします。

如来寺の前身の神宮寺宛に討入りの後に、おりくさんからと父上の石束や石束家の執事の口分田茂兵衛からの手紙が残っていること。
城明け渡しの後、大石一家がこのおせどに短期間ではあったが住み生活をしたこと等のつながりが有ります。
豊岡市でおりくさんのことを調査しておられる「瀬戸谷 皓」さんの本等を引用してお話を進めることにします。
別表に大石家とおりくさんの石束家との関係図と、おりくさん関連の年表をお配りしますので話と合わせてご覧下さい。

(一)理玖 大石家に嫁ぐ

りくの父方の石束家は戦国時代京極家と共に近江で戦って来て豊岡に落ち着いたのです。
母方は戦国時代武将の佐々成政の流れで、徳川家とも鷹司家へ一條家と言った公家衆とも姻戚関係のある名門の出です。

りくは年表にあるように寛文九年(一六六九)生れ、貞享四年(一六八七)大石良雄と結婚。大石家の方も結婚した時は他に母や弟の喜内はいたが、父は既になく、家の諸事は瀬尾孫左衛門らが取り仕切っておりました。
長男松之丞、後年の主税は幼い頃疱瘡にかかって、豊岡からお見舞いに来たとの記録が残っております。元禄四年に良雄の母が五年に弟の喜内が、元禄一一年に専貞(石清水八幡宮の僧)が亡くなったので、學運を親戚からもらい受け養子として専貞の名をつがせて多くの資料を残しています。

元禄一四年(一七〇一)三月四日の刃傷事件はすぐに豊岡にも伝えられて、石束毎公は家人の執事口分田茂兵衛を赤穂に、山海の珍味を持たせて行っています。五月一〇日附の大石の礼状があります。「珍しき塩鯛二枚、塩引鮭一尺、干鱈三枚、鯛早鮨一桶、塩辛一壷」など早々料理、家内と共に賞味と記されています。(後で出てくる干柿が赤穂から豊岡に対し日本海の魚が赤穂へ来ていることは、今の時代では逆かなと思います。)

口分田と瀬尾孫右衛門が種々を往来しつつ打合わせ相談しています。(当時どのルートで何日かけて豊岡―赤穂を往復したのでしょうか)

(二)山科への転居

赤穂歴史博物館に元禄一四年七月一三日附けで家内無事山科に到着の手紙が、六月二八日に着いた事、石束毎公が大石のデキモノを心配した事にふれた資料が残っています。
家内とだけあるので、大石夫婦と長女だけで松之丞と吉千代は山科に行かず、豊岡に居た可能性もあって、その後、山科へ合流かと思われます。

元禄一五年正月にりくが七月に出産するについて、山科では不安だということで、実家の石束家とやりとりがあって、口分田を迎えにやり、先年一二月に元服の主税をつけて豊岡へ行く予定が、主税や瀬尾孫右衛門をつけて、りくとくうを豊岡に行くのは問題がある、主税の行くのはよくないとのことで結局、大石側から加瀬村幸七と奥向きの女性、石束側から迎えの人が二人来て、四月一五日に出発し七カ月の身重の体で、亀山、篠山、佐治、逢坂、矢名瀬、養父市場を通って行ったと推定されます。

吉千代はその前から豊岡に居て、毎公が京都時代に臨済宗南禅寺の住職として交流のあった大休和尚が豊岡近くの竹野町の普門寺を隠居寺として住いしている所に、僧祖錬として出家を六月に手続きして、討入り前の一〇月には僧になっています。大石が討入り前に関係先への手紙の中に僧になった祖錬吉千代は時が来れば還俗させて大石家を継がせたい云々とありますので、難を避けるための仮の姿であったと思われます。
豊岡藩の藩寺の黄檗宗ではなく離れた寺に入れたのも、累の及ぶのを避けるためだったのでしょうか。

次女るりは山科の家の世話をした親戚の進藤源四郎の養女として山科住い。後でりくのもとに引取ることになります。
豊岡に着いたりくは石束家当主の役宅で七月五日大三郎を産みます。
山科の大石に知らせると大三郎は良い名前であるとほめて、ぜひ顔を見たいと書き送っています。そしてその一〇月に正式に離婚しています。

大石には別に第二夫人が居て玉室梅容という娘がいて、その墓は花岳寺にあるそうで、幼くして大石が家老の折に死去と思われます。第二夫人は大石より長命か生死は不祥のよしですが、りくとはうまくいったと思われています。

このように討入りへの準備を着々とすすめている様子が伺われます。主税は元服させて武士として討入りに参加させるとします。七月一八日長矩の弟の浅野大学の広島浅野家へのお預けが決定になり、赤穂浅野藩の成立は種々工作をしたが駄目となりましたので、討入りの大儀も成立、実行へととりすすめます。

既に二男吉千代は僧籍へ、七月に生まれた大三郎は口分田の実子とし更に他家へ一一月に養子に出しています。討入りが近付くにつれて慌てて処理を進めた様子が伺われます。

(三)討入りの後

元禄一五年一二月一四日~一五日 討入り。
討入りのことをりくの所へ誰がどんな形で伝えたのでしょうか?

如来寺に残る当時の神宮寺宛にそれん母と署名の一二月二七日の手紙があります。討入りの二週間後です。

神宮寺の住職は円快師です。
神宮寺からも討入り後早々に、りくさんに手紙が行ったものか、江戸表の事を寺も心配して祈祷してくれていることに感謝し、本望を遂げたことを聞いて喜んでおり、メデタイ事とし末代までの名をあげたこと、武運も強かった。全員無事だったことを喜んでおり。祖錬の無事僧籍に入ったと、瀬尾孫右衛門のことは残念(討入りに行かなかったことか?)として時節柄オイサメニテ下されたく候として結んでいます。

続けて元禄一六年一月一六日は年始の挨拶、祖錬の出家無事のこと、飛脚で手紙と見事な柿(干柿)を珍品として受け取ったお礼。

江戸から義士達の扱いについて何も連絡がないが、寺がお祈りをしてくれていることに感謝し、本望をとげられて喜んでいる事、後のことは天道様次第と考えているむね、あります。

同日附けで父の毎公からの手紙もあり、寺へのお礼の言葉が綴られています。口分田からの手紙も残っています。

皆さんご承知のように元禄一六年二月四日切腹を命ぜられますが、幕府は一月中に義士達の親族書を出させて、一族の関係者に居場所等を調査しております。幕府の処分は一五歳以上の男子の及ぶことになったせいか、大三郎は元禄一六年三月二五日に養子先からりくのもとに帰ります。

京極家筆頭家老孫であり、義士の子供ということで町をあげての慶事として、乳飲子大そうな扱いであったと、町方の日記に記録が残っています。

祖錬は宝永元年(一七〇四)帰僧大休の死去によって普門寺は廃寺となり、豊岡の興国寺に宝永三年に移り僧籍のまま宝永六年(一七〇九)一九才で病没し、良雄の吉千代を還俗させて大石家を継がせることは出来なくなりました。

りくの手元に居たくうは宝永元年(一七〇四)九月に病没しております。次女るりの消息は不明ですが大石の切腹の後に進藤家からりくのもとに帰り大三郎と一緒に住んでいたと考えられています。

りくが香林院と名乗るのは、父毎公の死去正徳三年(一七一三)より少し前と考えられます。元禄一五~一六年の神宮寺への手紙はそれん母です。

(四)大石家の再興

大石は自分の後も大石家を残したいと周辺に伝え、祖錬にそれを託したいと、赤穂の正福寺への暇乞い状にも記されています。

豊岡では大石らの切腹に合せての男子への罪が及ぶので、長女くうに婿取りをして大石家の再興を親戚に働きかけたりしましたが、祖錬吉千代もくうも相前後して死んでしまい、大三郎に託すしかなくなりました。そこで広島浅野家へ仕官させるべく、良雄の江戸住まいの親戚や、りくの弟の石束源八、長矩の従弟で大石家とも親戚であった、旗本の浅野長武らに頼ってみました。

他方義士の子供と京極藩筆頭家老の孫ということで京極藩への仕官の話もあり、曲折の末に広島浅野藩への仕官が決まりましたが、交渉の折多くの文書が残されています。豊岡藩と広島藩のメンツを立てることになり、関係者の思いと離れて大げさな行事となりました。大三郎の祖父石束毎公はその折病床にあり、七月二九日も七三才で、大石家の面倒をとことん見た一生を終えています。

大三郎は八月出発の予定が毎公の死去で延期となって九月二三日の出発となりました。
行列は大三郎、りく、るりは四人肩で上等の駕籠・腰元など女性用に一般的な駕籠が三丁用意され、長持四棹、小箪笥一棹、別に長持三棹、荷物一二貫目などが書き出され、うち長持は広島藩の御用船で室津から広島迄運んでいます。

大三郎の荷物には太守様御内大石大三郎と記入していたようです。一〇〇人を超える行列で役割分担や費用明細の記録も残っているそうです。いずれにしても大げさな行列で広島入りしています。

(五)広島での生活

広島の住居は仮住いの後今の広島市中央バレーボール場の所二の丸一〇〇〇石取りの人の住居、赤穂の家より普請は劣るが前庭も広く間数も多く、台所も広くて有難いと江戸の大石良雄宛の手紙で書いており、赤穂で仕えていた、加瀬村幸七、構三郎兵衛があまり役に立たなくなったともこぼしています。
一〇月八日附の大石良雄への手紙には、大石大三郎母の署名があり、るりも一緒に来たこと、旅は大切にしてもらい楽しかったこと、大三郎が一五〇〇石を頂戴することになったことを伝えています。
るりは広島に来てすぐ婚礼の話が大守浅野からのお声がかりで、同族の浅野長十郎一〇〇〇石取りと結婚し子供も出来ましたが、病弱で五三歳で大三郎の家で亡くなっています。

享保元年(一七一六)に生まれた娘に利久と命名しています。

大三郎は元服して外衛良恭と名のり、享保六年(一七二一)結婚、相手は五〇〇〇石の重役浅野忠喬の娘でしたが、離婚・再婚するも別れ、三度目の妻とも別れて家庭は恵まれていません。子供が出来ないので、小山家から養子をもらっています。

波乱の一生を送ったりくは、大石家の行く末に不安を持ちつつ元文元年(一七三六)六八才で死去、広島国泰寺に墓所があります。

代三郎は、りくの死去の翌年に心身不具合を理由に、お役御免を申出るが慰留され(三〇才代)その後旗奉行をこなし、三次浅野家の法事へ藩主の代理で行ったり、朝鮮通信使の世話など重責をはたして明和五年(一七六八)三月に隠居、明和七年二月一四日(一七七〇)に六七才で死去、りくの墓の横に墓があります。

理玖(りく)関連の年表

万治二年 (一六五九)    大石良雄 生まれる。
寛文九年 (一六六九)    理玖 生まれる。
延宝三年 (一六七五)    浅野長矩 藩主に。
延宝八年 (一六八〇)    理玖の母死去
貞享四年 (一六八七)    大石良雄 結婚か?
元禄元年 (一六八八)    長男松之丞 生まれる。
元禄三年 (一六九〇)    長女くう 生まれる。
元禄四年 (一六九一)    次男吉千代 生まれる。
元禄十二年(一六九九)    次女るり 生まれる。
元禄十四年(一七〇一)    三/一四刃傷事件
元禄十四年(一七〇一)    四/一五おせどの移住。
元禄十四年(一七〇一)    五/一〇魚のお礼
元禄十四年(一七〇一)    六月    山科に移住。
元禄十四年(一七〇一)    一二月松之丞 山科で元服。
元禄十五年(一七〇二)    四月くうをつれて豊岡へ。
元禄十五年(一七〇二)   六月吉千代 僧へ(祖錬)
元禄十五年(一七〇二)    七/五三男大三郎生まれる。
元禄十五年(一七〇二)    一〇/一正式に離婚。
元禄十五年(一七〇二)    一一月 大三郎 養子に。
元禄十五年(一七〇二)    一二/一四~一五 吉良邸討入り。
《元禄十五年《一七〇二》一二/二七神宮寺宛書状。》
《元禄十六年(一七〇三)一/一六神宮寺宛書状。》
元禄十六年(一七〇三)    二月四日良雄、主税ら切腹。
元禄十六年(一七〇三)    るりも豊岡に帰る。
元禄十六年(一七〇三)    大三郎引取る。
宝永元年 (一七〇四)    長女くう 病死。(一五才)
宝永六年 (一七〇九)    吉千代病死。
正徳元年 (一七一一)    父 隠居 父と正福寺に移る。(豊岡)
正徳三年 (一七一三)    七月 父 死去。
正徳三年 (一七一三)    九月二三日広島へ移住。
正徳四年 (一七一四)    るり 浅野長十郎と結婚。
享保二年 (一七一七)    大三郎元服。
元文元年(一七三六)   理玖 広島で死去(六八才)

You Might Also Like