江戸三〇〇藩、バカ殿と名君。
記事編集:尾崎を語る会会員
江戸三〇〇藩バカ殿と名君。-うちの殿様は偉かった?
赤穂藩・三日月(乃井野)藩 浅野長矩(1675~1710)の刃傷事件については種々言われていますが、確かなことは、知能が低かったわけではないが、緊張すると胸がつかえて発作的行動に出る持病があった。
(参考)現如来寺の長矩の書「座して静かに常を知る」もそれをうかがえるのでは?
松の廊下事件の日、その発作の伏線は、財政不如意も有り出費を抑えたいという長矩と、桂昌院に従一位を贈られるかどうかの山場だったことから、今回は特に勅使の扱いは丁重と考えた吉良上野介の間には、何かにつけてさや当てがあったということだろう。
その後の大石内蔵助の行動は、綱吉政権の面子を潰すことを避けることに気をつけつつ、巧妙に行動したことを評価すべきであろう。 城明け渡しや、残務整理の見事さ、筋道を通してのお家陳情、江戸の治安を乱さぬ整然とした討ち入りなど、目的意識をしっかりしての鮮やかな行動である。 その結果、旗本としてとはいえお家再興が叶い、義士達の遺族も、それぞれ諸侯に召し抱えられた。
一方、吉良上杉の方は、上野介はなにも悪くないとの正論にこだわりすぎて、世論対策、幕閣対策を誤った。その結果、上野介は討たれるし、息子の義周(よしちか)は高島藩に預けられ、過酷な扱いを受け早々に亡くなった。三河きっての名門、小土豪にすぎなかった松平家にとって「主家」に近い名家の吉良家は理不尽にも断絶させられてしまった。
余談だが「土芥冠讐記(どかいこうしゅうき)(注)」によれば長矩は、ひたすら女性に興味を持つ色狂いとあって、繊細で妻を愛する貴公子としてドラマになるのとは違うというが?
赤穂城は、1648年着工、山鹿素行の指導を受けて築城されたもので、元和偃武(げんなえんぶ)の後に作られた珍しい城である。幕府に対して気骨ある態度を崩さぬ、岡山、鳥取両藩に備えたためだろうか。
池田政綱=輝興→浅野長直―長友―長矩→永井直敬(なおひろ)→森長直=長孝=長生(ながなり)=政房(まさふさ)=忠洪(ただひろ)―忠興(ただおき)=忠賛(ただすけ)―忠哲(ただあきら)=忠敬(ただよし)―忠徳(ただのり)―忠典(ただつね)=忠儀(ただのり)
※ →国替え、―直系、=直系以外
三日月藩は赤穂藩の分家、初代森長俊(1697~1715)は藩邸を建設し町割りを進め、宿場町としての整備、京都の玉水の蛙を庭に放して泣き声を楽しんだり、葵や牡丹を栽培したとのこと。
(注)「土芥冠讐記(どかいこうしゅうき)」
元禄時代一六九〇年頃、幕府隠密の報告を基にした大名評判記。大名の私生活の事が書かれている。浅野長矩は色情狂扱い、津藩の藤堂高久(1669~1703)は良将と褒美するも余りありとベタホメである。
朱子学について
会津藩主・保科正之は、朱子学に則った善政というも、身分制度の固定、差別の厳格化、「婦人女子の言、一切これを聞くべからず」とし、朱子学以外の学問を弾圧。娘婿の前田綱紀が朱子学以外の書を集めたことを苦言。岡山藩主池田光政が熊沢蕃山の陽明学と距離を置かざるを得なかったのも正之の圧力。会津生まれで蒲生旧臣の儒学者山鹿素行も、正之の逆鱗に触れて赤穂に流された。
五代将軍綱吉が徳川十五代の中で最高の秀才、知徳能力は高かったが、偏執狂、母親や子供への狂おしいまでの愛情、財政を省みず学術、文化、宗教への支出を増やした。諸侯や部下への気まぐれな報奨や処罰、それに儒教的な仁政への理想が暴走した「生類憐みの令」など全てが極端だった。
元禄文化の開花は、パトロンとしての綱吉を忘れることは出来ないが、一方で多くの大名の取り潰しがあり、近臣が無調法でしばしば処分され、信賞必罰と言っても「態度が悪い」「親戚のお家騒動の相談に親身になっていない」など多くの人に納得の行かないこと多く、その民衆の「イライラ」が、赤穂浪士の討ち入りへの共感に繋がって、その対応に民衆の力に迎合せざるを得なかったのか。
八幡 昭海
赤穂藩・三日月(乃井野)藩 浅野長矩(1675~1710)の刃傷事件については種々言われていますが、確かなことは、知能が低かったわけではないが、緊張すると胸がつかえて発作的行動に出る持病があった。
(参考)現如来寺の長矩の書「座して静かに常を知る」もそれをうかがえるのでは?
松の廊下事件の日、その発作の伏線は、財政不如意も有り出費を抑えたいという長矩と、桂昌院に従一位を贈られるかどうかの山場だったことから、今回は特に勅使の扱いは丁重と考えた吉良上野介の間には、何かにつけてさや当てがあったということだろう。
その後の大石内蔵助の行動は、綱吉政権の面子を潰すことを避けることに気をつけつつ、巧妙に行動したことを評価すべきであろう。 城明け渡しや、残務整理の見事さ、筋道を通してのお家陳情、江戸の治安を乱さぬ整然とした討ち入りなど、目的意識をしっかりしての鮮やかな行動である。 その結果、旗本としてとはいえお家再興が叶い、義士達の遺族も、それぞれ諸侯に召し抱えられた。
一方、吉良上杉の方は、上野介はなにも悪くないとの正論にこだわりすぎて、世論対策、幕閣対策を誤った。その結果、上野介は討たれるし、息子の義周(よしちか)は高島藩に預けられ、過酷な扱いを受け早々に亡くなった。三河きっての名門、小土豪にすぎなかった松平家にとって「主家」に近い名家の吉良家は理不尽にも断絶させられてしまった。
余談だが「土芥冠讐記(どかいこうしゅうき)(注)」によれば長矩は、ひたすら女性に興味を持つ色狂いとあって、繊細で妻を愛する貴公子としてドラマになるのとは違うというが?
赤穂城は、1648年着工、山鹿素行の指導を受けて築城されたもので、元和偃武(げんなえんぶ)の後に作られた珍しい城である。幕府に対して気骨ある態度を崩さぬ、岡山、鳥取両藩に備えたためだろうか。
池田政綱=輝興→浅野長直―長友―長矩→永井直敬(なおひろ)→森長直=長孝=長生(ながなり)=政房(まさふさ)=忠洪(ただひろ)―忠興(ただおき)=忠賛(ただすけ)―忠哲(ただあきら)=忠敬(ただよし)―忠徳(ただのり)―忠典(ただつね)=忠儀(ただのり)
※ →国替え、―直系、=直系以外
三日月藩は赤穂藩の分家、初代森長俊(1697~1715)は藩邸を建設し町割りを進め、宿場町としての整備、京都の玉水の蛙を庭に放して泣き声を楽しんだり、葵や牡丹を栽培したとのこと。
(注)「土芥冠讐記(どかいこうしゅうき)」
元禄時代一六九〇年頃、幕府隠密の報告を基にした大名評判記。大名の私生活の事が書かれている。浅野長矩は色情狂扱い、津藩の藤堂高久(1669~1703)は良将と褒美するも余りありとベタホメである。
朱子学について
会津藩主・保科正之は、朱子学に則った善政というも、身分制度の固定、差別の厳格化、「婦人女子の言、一切これを聞くべからず」とし、朱子学以外の学問を弾圧。娘婿の前田綱紀が朱子学以外の書を集めたことを苦言。岡山藩主池田光政が熊沢蕃山の陽明学と距離を置かざるを得なかったのも正之の圧力。会津生まれで蒲生旧臣の儒学者山鹿素行も、正之の逆鱗に触れて赤穂に流された。
五代将軍綱吉が徳川十五代の中で最高の秀才、知徳能力は高かったが、偏執狂、母親や子供への狂おしいまでの愛情、財政を省みず学術、文化、宗教への支出を増やした。諸侯や部下への気まぐれな報奨や処罰、それに儒教的な仁政への理想が暴走した「生類憐みの令」など全てが極端だった。
元禄文化の開花は、パトロンとしての綱吉を忘れることは出来ないが、一方で多くの大名の取り潰しがあり、近臣が無調法でしばしば処分され、信賞必罰と言っても「態度が悪い」「親戚のお家騒動の相談に親身になっていない」など多くの人に納得の行かないこと多く、その民衆の「イライラ」が、赤穂浪士の討ち入りへの共感に繋がって、その対応に民衆の力に迎合せざるを得なかったのか。
引用・新潮文庫「殿様の通信簿」磯田道史