小瀬戸と(おせど)御瀬洞

記事編集:尾崎を語る会会員



この5月にある方からお問い合わせのメールをいただきました。その内容は、「おせど」の語源についてでした。

そこで、「郷土歴代の城主と赤穂塩田沿革史(昭和31年11月15日発行/著作兼発行者 平 平吉)」から引用をさせていただきます。

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尾崎の備前時代 【小瀬戸と(おせど)御瀬洞】

 今を去ること約四百年前の旧尾崎村について述へてみる。
 天正年間の赤穂地方は、備前岡山の域主浮田秀家の領分にあって、浮田家の家臣で奥野将監と云う者が赤穂の地頭として、尾崎の現在の観音堂附近に住して地頭の執務を取って居た。当時、通称金光山(現)如来寺山脈が今の県道辺まで突出して居て、現在八幡神社の御渡所(のっと岩)の間が小瀬戸をなして居たのである。一方、如来寺山脈の突出に包まれた様な山麓瀬洞と称んで居た所に奥野将監が役所を置いたので、その附近の土着民が何時の間にか御瀬洞と敬称したのが現今の(おせど)現在株式会社桃井製網社長、桃井健三氏別邸に連続する辺りが天正時代に敬した御瀬洞である。赤穂義士に関するおせどの地名は其の後の由来であると思う。
 此の地頭役奥野将監は観音菩薩を常に信仰して、此の役所敷地外に小御徹堂を建立して居たので、後にその辺りを観音堂との地名となる。然して浮田秀家は関ケ原の合戦に石田三成方に起って石田と共に滅亡しその後、赤穂は姫路の城主池田輝政公の領地となり、池田公が岡山城主となるや再度備前領となり、次いで浅野家、森家と移り代ったのである。
 浮田家の滅亡で奥野将監も観音菩薩もそれよりも先きに尾崎より姿を消したのであるが、それより約百六十年後の安永二年に赤穂地方に疫病が蔓延して、同年八月二十二日於尾崎八幡宮で祷祈して神札が配布となる。人心やっと治って間もない、同年の十月十二日に瀬洞附近より付火して三百余軒が全焼したので、誰が云うとなしに、疫病といい、此の大火は御瀬洞の観音堂跡の地内を汚した祟りであると、迷信のデマが流布されて、村民が協議を重ねて観音堂を再建すること一決して、建立されたのが安永三年五月十八日落成と入仏式が同時に挙行されたのが、現在荒廃岡棟の通称庵寺赤穂西国二十九番の札所である。
 赤穂城主森家四代、伊勢守政房公、今を去ること二百余年前の記録の一節である。

 【オセドの大石稲荷】

 オセドは、八幡宮の東側、観音堂町、現在の宮本町にあり、すぐ上には太地堂が建っている。崖腹に大石稲荷と呼ばれている祠が祀られ、その入口に牛右・馬右と呼ばれている大きな右が両側に置かれている。向かって右側に牛右、左側が馬右である。右の左側には庭があり、ここには別名を「ひょうたん池」と呼ばれている池が掘られている。
 「ひょうたん池」の窪みの部分には橋が架けられている。池の水は山裾より雨水を引いてきている。牛右・馬右を通って稲荷の鳥居をくぐると、正面に祠がある。その左側に「大石良雄侶寓地」と書かれた石碑が、昭和六年(一九三一)一月に建てられている。池から左へ山の崖腹に沿って歩くと、「惜桜碑」と書かれた碑がある。 大石良雄は、元禄一四年(一七〇一)四月一五日に城を出て、家僕であった妹尾孫左衛門の兄である元屋八十右衛門の別屋敷に移ったとされている。この地がオセドであり、大石良雄が同年六月二五日に京都の山科に移るまで、この地で開城の後始末をしていた所である。崖腹の稲荷の祠も大石良雄が勧請したものと伝えられている。このため、この稲荷を大石稲荷と呼ぶようになったという。

祭神:宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
祭り:二月初午 八幡宮より宮司が出向いていた。

【オセドの牛石・馬石】

 現在この二つの石は、オセドの庭の入口の左右に置かれている。もとは赤穂城の本丸内の庭園にあったものであるという。明治維新後に、赤穂城内の庭園から転々として、花岳寺の所有となっていたが、桃井氏の先代がオセドを一般に公開する時に、ここへ移したものであるという。
 牛石・馬石のいわれは、牛がうつ伏せ、馬が立っている形に似ていることから、このように呼ばれたという。石は薩摩石といわれ、これは薩摩藩の島津氏から浅野氏に送られたものと伝えられている。

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