義士の引揚げの現在を歩く(吉良邸~泉岳寺)

記事編集:尾崎を語る会会員

発表者:目木敏明

1.今回の話しの始まり

義士行列の担当が尾崎地区にあたった平成20年のパレード後、実際の引き上げ道を歩きたいと、“討ち入り後の泉岳寺への道を歩く”を企画・実行した。

昔同様に現在も、だんだん賛同者が減り、最初は10名近い数であったが、実際に姫路駅からの出発時は2名のみとなってしまった。
    
2.吉良邸から泉岳寺へ

市役所観光課から義士法衣をお借りし、法衣のみではあったが、これはかなり人目を引いた。法衣を目ざとく見つけた人からは、それなりのアポローチを掛けていただいた。これは、赤穂事件は何も赤穂市近辺だけでは無く、東京においても、結構有名な事件として今も意識している事であり、改めて人との触れ合いのすばらしさに感謝した。(ただし、年配の方々のみであった)

絶好の好天に恵まれたウオーキングではあったが、終盤になるにつれ義士たちの疲れは、いかばかりであったろうとの思いを強くした。前夜から寝ずに討ち入りし戦闘の後に朝を迎え、多少の怪我を負いながら戦闘用に着込んだ重い鎖チョッキもそのままに、武器を携え12キロの雪道を追手の恐怖と興奮状態の中、3時間ほどで泉岳寺まで歩いた事は、驚嘆以外の何物でもない、

3.いざ、出発!!!

今回は、吉良邸からの出発ではなく、吉良邸の東約1キロの集合場所(杉野十平次田宅・堀部安兵衛宅・・・どちらも何も標識なし)付近からのスタートとした。

杉野十平次宅と思しき場所から、吉良邸を目指す。

当時は、2557坪・建坪1234坪と伝えられていますが、現在は邸跡として残る松阪町公園(29.5坪)のみで、当時の86分の1に過ぎません。邸内の「吉良の首洗い井戸」及び「松阪稲荷」に参拝後、義士の足跡を辿った。

引き上げの出発点となった裏門のあった場所は、両国3丁目10番1号辺りで、そこから泉岳寺を目指して出発するが、残念なことに裏門跡の高札は発見出来ず。(後日、確認出来た)

回向院の裏道を両国橋東詰め方向へ進む。待機と小休止を取ったと言われている所は、現在はマンションが建っており、踏査を断念する。

一行と同じように、この東詰めで小休止し、一之橋北詰交差点に出て右折し、一之橋通りを南下する。

この一帯は当時、幕府の御船蔵があったところだが、現在はその面影すらない。

一之橋通りを南下すると、現在の新大橋通りの手前で、道は大きく右にカーブする。ここから先は、関東大震災以降できた新道で、江戸時代の道とは符合しないが、この新道を進む。少し進むと右に江東区芭蕉記念館がある。また、萬年橋北交差点に旧新大橋跡の石柱が歩道の端に確認できる。

萬年橋北交差点を右折し、10メートル程進んだところで左折し南下する。この辺り一帯が、江戸時代の新大橋東詰広場にあたり、一行が怪我人の為、駕籠を雇ったのが、この広場だと言われている。

やがて、突き当たりに正木稲荷が見えてくる。江戸期は、正木稲荷前の細い道が萬年橋通りであり、この細い道を義士たちは引き上げていった。

旧萬年橋は無く、現在の萬年橋を渡り永代橋までは、河岸公園(隅田川テラス)を歩く。永代橋は、現在の場所より150メートル上流に架かっており、義士たちは渡りきり、左折して旧豊海橋を渡るのだが、永代橋を渡る前に大高源五の俳諧の友であるちくま味噌初代・竹口作兵衛方で、甘酒の接待を受けており、赤穂浪士休息の碑がある。

現在の永代橋を渡りきると、左側にコンビニエンスストアの新道があり、このあたりが迷う場所であるので、要注意である。

越前福井藩の松平越前守の広大な屋敷であったため、この屋敷の外側を大きく迂回することになる。鍛冶橋通りの新道を横切り(株)北川本家角を左折する。この辺りは酒問屋が並んでいたといわれるように国冠等、酒屋の名前が見える。

20メートルも進んだ所で、新川整骨院の交差点を右折する。80メートル程で右前方角にタバコ屋がある交差点を左折し、越前掘児童公園横を通り、明正小学校に当る。小学校の右側道路を直進すると、キリンビールの大きなビルがあり、道の突き当たりに新川児童館がある。それを左折すると高橋が右に見えてくる。

高橋を渡り切ったところで、左折すると鉄砲州通りになる。進行方向左側の亀島川に工事用作業船が沢山停泊していた。交番まで真っ直ぐ進む。交番の角を左折しすぐ右折します。左に鮨長の看板が見えますから、その道を直進します。左角に宗教法人・真教会の建物があり、右折します。また、鉄砲州通りの交差点に出ますので、左手前角民営堂ビルを左折、鉄砲州通りを150メートル程進むと佃大橋の橋桁があり、右角にコンビニのサンクスがある。佃大橋橋桁から先は急に道が広くなりその道を直進する。一つ目の交差点(右手前に角に明石鉄工所)を右折し、聖路加国際病院のたくさんの窓を見ながら、築地川公園まで直進する。そこを左折し少し進むと浅野内匠頭邸跡の碑があり、一休みする。義士たちは築地川堀対岸(現在は築地川堀が埋めたてられ築地川公園になっている)より自分たちの旧屋敷を見納め泉岳寺へ向かった。

目の前の旧暁橋を渡り、直ぐ左折し直進すると築地本願寺に突き当たる。すごく大きい土地で、寺の塀に沿って進む。このあたりすごい人ごみであった。そのはずで、築地場外市場が山門通りに続いていた。人を掻き分けながら市場橋交差点を右折し、後は便座5丁目まで、直進する。

新橋演舞場前の采女橋を渡り昭和通りを突っ切り、すぐの信号のない交差点左手前角に香蘭社があり、左折する。

銀座8丁目の突き当りまで直進し、歩道橋を渡り新橋方面に出る。
歩道橋を渡ると、松下電工東京本社ビル前の旧新橋停車場の前に出る。ここで世話好きの東京人(?)に呼び止められ一時間ほど旧新橋停車場の見学を行なう。呼び止められなければ、見落として進んでしまうところであった。結果よしである。

汽笛一斉の余韻に浸りながら少し進むと、日本テレビの北玄関前に仙台藩上屋敷表門跡の説明板があり。浪士がこの前を通った事や粥のもてなしを受けたことが書かれている。

日本テレビの前を通り、新幹線のガード下を通って、東京茶業会館前を通り住友東新橋ビルまで直進します。

住友東新橋ビルを右折し、第一京浜国道に出て左折。あとは、目指す泉岳寺までは一直線である。この一直線が長かった。途中、勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血会場会談会見場記念碑前と御田八幡宮の二箇所で、しばしの休息を取る。江戸城無血会場会談会見場記念碑前では、これから東海道ウオーキングで京都まで行く、夫婦に出会う。この夫婦とは、御田八幡宮でも最後の泉岳寺でも会う。いろんな人が居るものである。

高輪郵便局・ホテル東京の前を通り、泉岳寺交差点にやっと到着する。地下鉄の看板を見つけ、右折し緩やかな坂(当時は階段)を上ると泉岳寺の山門である。総歩数約3万2千歩、満足感に浸る。(約12キロの雪道を、12キロ以上の武具・武器を背負い、3時間弱で歩いた浪士たちの体力には頭が上がらない。現代の我々が遊び半分で歩くのとはまったく違う。)

3.次回

年々、歩く人が増えているとの事なので、次回にはもっと多くの赤穂人に参加して頂き、時間も同じ時刻で引き上げコースを歩いてみたい。



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