塩の歴史

記事編集:尾崎を語る会会員

塩の歴史

八幡昭海

塩は明治三八年専売制となった。
昭和三二年から三三年に日本塩業研究会が専売局の役人で後に武蔵野美術大学の教授になった、「加茂 詮」氏を中心に「全日本塩業全書」を発行したが、一般には出版されず広く読まれたとは言えない。
専売公社が「日本塩業大系を作り一九八五年現在一七巻のうち一四巻発行されている。

塩は人間にとって、又、動物にとっても大切なものであるが、エネルギーになるものではない。米、酒、砂糖はエネルギーになる。そして神になるが、塩は神として祀られていない。
専売になる昔、東北沿岸、青森―福島の海岸で、土器で煮詰めて塩を作った。三〇〇〇年の歴史があり、土器が多く残されている。

藻塩焼くという言葉があるが…

入浜式から揚汲式へ海水から鹹水を作り、それを煮つめて塩を作る。土釜は粘土と貝殻を粉にしたものを練り合わせで作ったもの。鉄の技術で鉄釜が作られるようになる。鉄は中国地方、北上山、滋賀から産出。滋賀の鉄は「マンガン」を含み堅く、石の加工に使われた。奈良の巨大花崗岩の造形物、酒船石とか。
木地師の発生も滋賀の鉄を持った人々。戦国の城作りの穴太衆もその流れか。それとは別に、渡来人が鉄の技術を持って来た。その流れが奈良から鎌倉へ、又、若狭へ、北陸へそこの揚浜に至る。
鉄はサビが出るので、その塩は茶色であった。一方瀬戸内の花崗岩は薄く出来ぬので片麻岩を薄く割って、それで鹹水を煮つめて塩を作ったので白い塩を作ることが出来た。

燃料の薪を作る人と、薪で塩を作る人と分業化が進んだ。東北の産地にも瀬戸内の塩を売る人が来るようになった。
北陸地方の行商に変化があった。中国地方では木を燃やした灰を塩と交換、灰は麻の生産に必要で、山地より灰や木を運ぶより、灰の方が楽であった。
塩を運ぶのに、牛や馬を使ったが、馬より牛の方が有益。途中の草を食べて、道路の保全にも役立つ。牛は夜座って寝るのに馬は立っているとか。牛の方が良かったという。

塩の道の話がある

豆腐を作るのに苦汁の多い塩の方が貴重だったという。
塩の道の話の中に野獣対策の話がある。便は一カ所にためず流すようにしたという。夜間火を燃やして野獣対策をしたという。

日本の人の話

原始時代から一貫して人口増加している。
異民族の侵略を受けなかったこと。移民はあったが、武力を持ってこなかった。
武士と農民の分離で、戦争は武士がし、農作物とかは農民が作った。戦国時代も農作物はきちんと作られて、一般の人の生活を支えた。ゲリラ戦はしなかった。平家の落人達はそれなりの生活をして過ごせた。
高温多湿で植物が繁茂した。農作物がよく取れた。その中で外来種を上手に取り入れた。豆、トウモロコシ、サツマイモが早く全国に広まって食料の自給を支えた。
宗教の争いも他の国のようでない。中国では王朝の変わるたびに人口が激減しており、安定するのは明代と言われた。

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