本願寺の歴史
記事編集:尾崎を語る会会員本願寺の歴史
斯波随覚
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の-つとなっている。
もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展した。
親鸞聖人が弘長二年(一二六二)に九〇歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳(いとく)を慕う東国(とうごく)の門弟(もんてい)達は寂莫(せきばく)の感を深めた。
そこで、一〇年後の文永九年(一二七二)に、大谷の西、吉水(よしみず)の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鴛聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂(おおたにぴょうどう)である。
この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった。
大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第三代に就任した。覚如上人は三代伝持(さんだいでんじ)の血脈(けちみやく)を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図った。三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人から親鸞聖人へ、そして聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人はその如信上人から教えを相伝(そうでん)したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかにしたものである。
本願寺の名前は、元亨(げんこう)元年(一三二一)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置した。これを御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)の両堂に別置するのは、第七代の存如(ぞんにょ〉上人のときである。五間四面の御影堂を北に、三間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられた。
室町時代の中頃に出られた第八代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(一四五七)四三歳の時、法灯(ほうとう)を父の存如上人から継承すると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座(ひらざ)で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれた。
また本尊(ほんぞん)を統一したり、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江をはじめとする近幾地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆(こうりゅう)をみることになった。
しかし上人の教化(きょうけ)は比叡山(ひえいざん)を刺激し、寛正六年(一四六五)上人五一歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒(しゅと)によって破却(はきやく)された。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぽうしや)に安置して、文明三年(一四七一)に越前(福井県)吉崎(よしざき)に赴かれた。吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明五年には「正信偶(しょうしんげ)・和讃(わさん)」を開版(かいばん)し、朝夕のお勤めに制定された。
上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装して一揆(いっき)を起こすに至った。
文明七年、上人は争いを鎮(しず)めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口(でぐち)を中心に近幾を教化、文明一〇年(一四七八)には京都山科(やましな)に赴き本願寺の造営に着手、一二年に念願の御影堂の再建を果たされ、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられた。
上人の教化によって、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われたが、明応八年(一四九九)八五歳で山科本願寺にて往生された。
この後、山科本願寺は次第に発展したが、天文(てんぶん)元年(一五三二)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われた。
そこで蓮如上人が創建された大坂石山御坊(いしやまごぼう)に寺基(じき)を移し、両堂など寺内町を整備して発展の一途をたどった。
しかし、天下統-を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害となったので、ついに元亀元年(一五七〇)両者の間に戦端が開かれた。
本願寺は、雑賀衆(さいかしゅう)をはじめとする門徒衆(もんとしゅう)とともに以来一一年にわたる、いわゆる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として天正(てんしょう)八年(一五八〇)信長と和議を結んだ。
顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森(さぎのもり)に移られ、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移られた。
天正一九年(一五九一)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。
阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄(ぶんろく)元年(一五九二)、上人は積年の疲労で倒れられ、五〇歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。
その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長(けいちょう)七年(一六〇二)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。
これより先、本願寺は慶長元年(一五九六)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れた。
翌年に御影堂の落成をみたものの、元和(げんな)三年(一六一七)には失火により両堂や対面所などが焼失した。翌年阿弥陀堂を再建し、一八年後の寛永(かんえい)一三年(一六三六)に御影堂が再建された。
このころ対面所などの書院や飛雲閣(ひうんかく)、唐門(からもん)が整備された。ところが元和四年に建立された阿弥陀堂は仮御堂であったので、宝暦(ほうれき)一〇年(一七六〇)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の偉容が整備されたのである。