吉良上野介の傷

記事編集:尾崎を語る会会員

吉良上野介の傷

上杉 太郎

 江戸城松の廊下で吉良上野介が受傷した際、最初に手当てをしたのは将軍綱吉の侍医だった本道(内科)の津軽意三(よしぞう)と、外科の坂本養貞である。

だが両人では、患者の出血がとまらず手にあまるので、当時、外科の名医と評判だった町医の栗崎道有が往診先より呼びだされて治療に当たった。

このときの経過が『道有日記』に克明に記されている。

「上野介の額の切創は斜めに三寸五分(十一センチ余)あり、骨まで達していた。背中にも七寸(二十センチ余)の切創があったが、こちらは浅手であった。そこで額の傷を熱湯で洗い、小針小糸で六針縫い、そのあと石灰をまぜた煉薬を貼って傷口を塞いだ。背中の傷は三針縫合しただけですんだ。さらに上野介の着ていた白帷子(しろかたびら)の袖を引き裂いて包帯とし、手際よく縫合個所に巻きつけた」

その後を原文でたどると

「部屋中、血になりたる類を吉良挟箱(着替え用の衣服などを入れる長棒のついた箱)へ入れさせ、畳にも方々血流れ、汚らわしく見ゆるほどの物を吉良家来中に申しつけ掃除させ……それより吉良気を鎮め湯呑所より湯を取り寄せ、茶碗に食を入れ、湯漬にて焼塩少々相求め、二碗湯漬を用いて、一と入り元気、常の如くに見えるなり」(堀川豊弘著『吉良義央と元禄事件』)。

上野介の出血は、見た目ほどたいしたものではなく、むしろ低血糖による気力減退があるとみた道有は、ときを移さず台所へ駆けこみ、ご飯をほしいと頼んだ。もし、そのとき、手負いの吉良さまにさしあげる、といえば穢れだといってことわられる恐れがあったので、自分が食べるものだといい、すぐにそれをもって部屋へもどり、みずから上野介に食べさせた。すると患者は、たちまち気力を回復して全身の状態は改善された。

道有の的確な判断と迅速な処置によって、上野介は救われたのである。

道有の栗崎流外科はその後、山脇流としてうけつがれ、ご子孫は現在愛知県高浜市で山脇薬局を開業されている。

参考書物「歴史読本」一九九九年四月号

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