宝専寺について 

記事編集:尾崎を語る会会員

写真:宝泉寺 東門

 
宝専寺について

村上順教

はじめに宝専寺の縁起などにつきまして、ただいまお手もとにくばりました、赤穂南組寺報に、簡単に書いてますので、これを参考にして頂き度いと思います。

宝専寺と申しますのは、竜王山宝専寺で、お寺はどんなお寺でも、何処のどんな宗旨の寺でも、何々山、何々寺と、山号と寺号がつくことになっております。ここは竜王山宝専寺と申します。

御存知の通りこの宝専寺は、浄土真宗の本願寺派、浄土真宗には十派あるんです。真宗というのは、親鸞上人がお開きになった宗派です。この浄土真宗が、十派に別れております。その十派とは、本願寺派=西本願寺、真宗大谷派=東本願寺、真宗高田派=専修寺、真宗仏光寺派=仏光寺、真宗興正寺派=興正寺、真宗木辺派=錦織寺、真宗出雲路派=毫摂寺、真宗誠照寺派=誠照寺、真宗三門徒派=専照寺、真宗山元派=誠城寺です。それぞれが独立して、本山をなしておりますが、これを浄土真宗の十派と申します。その中の本願寺派が私達西本願寺のことで、東本願寺のことは大谷派といいます。

宝専寺の縁起

この浄土真宗の、本願寺派の宝専寺の縁起と申しますと、真宗になる前は真言宗でした。この尾崎の裏の東北に寺山という処がありました。そこに忠魂碑がありましたが、いまの小学校が建つ時に、この寺山をくずして、この土を埋立てました。ここから如来寺のあたりまでを、寺山といっていた。ここに七つのお寺がありましたが、寺運も衰退して残ったのが、竜王山専福寺と、もう一つは竜馬山観音寺という、二つのお寺が残ったんですが、この竜王山専福寺というのが、竜王山宝専寺のもとになっている。それから、竜馬山観音寺のほうは、いまの如来寺の前身で、どちらのお寺も、前は真言宗であり ましたがいまは、如来寺は天台宗となり、私の方は浄土真宗となっております。

後奈良天皇の時代(一五三七)、いまから約四五五年前の天文年間の春、大阪に本願寺のあった時代に、竜王山専福寺の住職である正善という人が、本願寺の第十世證如上人のお説を受けて、それまで真言宗であったお寺を直ちに改めまして、浄土真宗とした。いままでは真言宗でございますので、山へこもって、自力で悟りを開くのですが、浄土真宗では、そのような必要はない。いくら修業しても、どんなに勉強しても、自分の煩悩は、消えることがないんだと、親鸞上人がおっしゃって、開かれたのが浄土真宗です。正善という人が、開基となって竜王山宝専寺とし、自分も名を正空と改めて、寺山から尾崎の真ん中へお寺を移された。あの山の上では毎日村人が、お説教を聞きに来ることがむずかしい。お年寄りが、お寺参りに便利なようにと、山から下へ移された。当時はいまのような立派なお寺ではなく、村の中ですので土地も無かったので、小さなお寺でした。いまのように立派なお寺が建ったのは、約二○○年前で、屋根瓦の葺き替えをした時に、鬼瓦を下ろして、焼いた人の名が見つかりました。これが宝専寺の由来でございます。

余談になりますが、終戦後物が不足している頃に、佛具がよく盗まれると聞きましたが、ある日のこと、平安さんがお寺へ来て「半鐘が無くなってませんか」と言われましたので、よく調べてみると、異状ありませんから 「うちにあるで」と言いますと、「どこの半鐘かわかりませんがみつけました」とのことで、現場へ行きますと、忠魂碑の上の段の草の中に、半鐘があった。平安さんが草を刈って居たら、かちっと当たるので、よく見ると半鐘だったので、急いで寺の方へ知らせてくれたものです。私がよく見ると、竜馬山観音寺と書いてありました。観音寺といえば、如来寺の前身ですから、この半鐘 は如来寺のものでした。私の方は、毎日鐘を打ちますから、すぐわかりますが、如来寺は殆ど鐘を打ちませんので、盗まれているのを知らなかったようです。八幡先生に「先生あんたとこの半鐘ですがな」といって、如来寺に納めたことがありました。

またこのお寺で、終戦後、進駐軍の指示によりまして、昭和二三年頃から、保育所をつくりました。当時は物資が不足で、脱脂粉乳の配給を受けていました。保育所には、最低基準がありまして、子供何人で何平方米、というようになっておりましたのですが、約四〇人の園児でしたので、あらゆる場所が教室になったり、運動場として、今井先生、霜野先生、池田先生、等にお世話になりまして、保育所を開園しましたが、尾崎は早かったように思います。これが尾崎保育所の前身であります。

宝専寺の本堂

宝専寺の本堂は、縦に長いのが特徴です。奥行きが深い方が、お話しがしやすく、又聞きやすいが、反対に狭いのは、話しが聞きにくい。本堂の中は、およそ一○○ 畳敷けます。このような立派な道場が建ったのは寛政八 年(一七九六)一九八年前でございます。当時の記録によりますと、大工の棟梁が久保善兵治、その頃は大工さんでも、瓦師さんでも、藤原という名を貰っていたらしい。本当の名前は、久保さんでも、藤原の名をつけていた。古い書類を整理しましたときに、本堂の設計図がみつかり、それにより、棟梁は久保さんと判明しました。あの大きなお寺の材料も、どこから、どのようにして、運んで来たか定かではありませんが、どうも山陰の鳥取県、島根県あたりから、運搬されたようですが、尾崎の狭い道を、あの大きな材料が、どのようにして持ち運んだか、昔の人の知恵には感心します。宝専寺は、一年や 二年では完成しておりません。鬼瓦の銘でも一○年程の差があります。前側と後ろの瓦の年号でもその差がわか ります。鬼瓦の銘には、根木の大崎庄ヱ門(藤原)その下の瓦には、砂子の大崎周道(藤原)と、いづれも藤原の名がついております。使用した瓦の数も莫大な数です。このようにして、おおぜいの人の力と長い年月をかけて、建立されたのが、いまの宝専寺の本堂でございます。

本堂の屋根替え

本堂の屋根替えをする時に、私と東の先代の住職が世話人のお世話になりながら、尾崎の門徒に、お願いに廻りましたが、「自分の家が雨漏りで困っていても、修理が出来ないのに、なんでお寺の屋根替えに協力出来るんか、阿保らしい」と、ひどく言われましたが、その時に「あのお寺は、決して私ら住職の寺ではありません。 みんなの寺ですよ。門徒全部のお寺ですよ」と、説明して納得して協力を頂きまして、立派な屋根替えが出来上りました。屋根替えでそのように、難しかったのに、あのような大きな本堂を、門徒で建てるには、みなさんにいろんなことがあったと思います。

お寺と火災

どこの村にもお寺があります。小さい村には小さいお寺、大きな村には大きなお寺がありますことは、いつも私は感心しておりますので、私の住職のうちは、あれを無くしてはいけない。私の時代にもし焼失するようなことは、絶対に起さないと、誓っております。記録によりますと、むかしの小さなお寺の時代に、何回か火事を出しています。釣鐘堂が焼けたこともあります。ですから、常日頃から、「火災だけは用心せよ、火元には充分注意せよ」とみんなに口喧しく言っておりました。赤穂の萬福寺が火災で焼けまして、いまは立派なお寺が建っていますが、お参りをした時に、住職が話しをされまし たが、本堂を建てた時に、天井が張れなかったのを何年か後に、天井を張りましたが、本堂を建てた費用より、天井の方が費用が高くついたと伺いました。それから折方のお寺が焼失したときは、寺の過去帳も全部焼いてしまったので、門徒の方々も、自分の家の法事も新しいの はわかりますが、古い法事がわからなくてお寺も門徒も困ったというようなこともあります。

お寺の過去帳

お寺の過去帳は、二つ作りまして別々の場所へ保管しています。同じ所に置いていてもし焼失すると困ります から、このことは非常に大事なことで、何百年たっても、調べてくださいと訪ねてくる人があります。子供の頃でしたが、大阪、堺、神戸の遠い所の人が自分の家の先祖のことを知りたいが、役場へ行ってもよくわからないので、お寺の過去帳を調べてくれと、来られた人もありました。私の方では、元禄頃からの記録ですが、西の門徒の人のみです。東の門徒の人は、斯波さんの方にあります。このようにして保存しております。この過去帳を見ましたら、先祖のことがよくわかってきます。お寺の過去帳は、死んだ人の年月日と、喪主と名前だけしか書いていません。その人がどこから来た人か、その人の娘が、どこへ行ったか等は書いてません。「お寺の過去帳には、明治の始めの頃から、苗字がつきましたから、大体わかりますが、それまでは、屋号なんですが、その屋号もないのがありまして、どれがどこやらわからないこともありますが、いろんな人が調べてくれと来られます。

家庭の過去帳

私がみなさんにお奨めするのは、各お宅にも、覚えているうちに過去帳をつくり、先祖のことを書き残すようにすること、もし不明な点は、お寺の過去帳を参考にして、簡単なものでよろしいから、自分の母親は、どこから来た人、家の誰々はどこへ行ったというようなことを、鉛筆でいいから、書き留めておくようにしてもらいたい。尾崎で一番多いのは、東は金砺さん、西は目木さんらしく聞いています。

昔は各家庭でも、一年に一回、報恩講というのがありまして、この時は、薄い親戚でも案内をして、顔を会わせていましたが、いまは報恩講がありませんので、同じ一統だと思うんですが、全然お付き合いをしてない家がたくさんあります。そのような時に、この過去帳が役に立つことがあります。

写真:宝泉寺での敬老会(昭和初期)

お寺一つで東と西

尾崎の宝専寺は、お寺が一つで、庫裡が二つあって、 それぞれ住職が住んでいる。全国でも唯一つこの寺だけです。あの有名な信州の善光寺さんが、天台宗と浄土宗で、一つの寺に二つの宗旨がありますが、宝専寺は同じ宗旨で東と西にわかれている。しかし本山は西本願寺です。故宮本義一さんが総代のときに、一度東と西の門徒数を調べたことがありますが、なんと殆ど同じ数で、驚いたことがありました。三三〇年程前に、当時門徒が大ぜいいたので寺を中心に、西は村上、東は斯波に振り分けたものが、いまでもお寺の東側には東門徒、西側には西門徒が多いです。何百年と経過しているうちには、東西それぞれ移転があったと思われますが、門徒の数は前述の通りです。それから戦死者の数も、同じぐらいです。あの一○年間の戦争で亡くなられた人が、東西殆ど 変りません。これにも感心しました。本山の方へは一つの宝専寺で届けています。

尾崎の人が本山へお骨を納めに行かれて、京都駅でタクシーに乗り込み、「どちらまで行きますか」と運転手に聞かれ「大谷さんへお骨を納めに」と言うと「東ですか、西ですか」と問われ、西の門徒の方は、西と答えると、間違いなく連れていってくれますが、東の門徒の方はつい「東です」とこたえますと、東の大谷さんの方へ連れて行かれます。いくら調べても赤穂の宝専寺は、登録されていません。結果西本願寺との間違いとわかり、無事納骨して帰った人が、「住職さんがよく説明してくれんから、ひどい目にあった」と怒られたこともありました。尾崎では東と西にわかれておりますが、宝専寺は一つで、西本願寺ですから間違いのないように願います。

二人の住職

この宝専寺が、二人の住職になったのは寺が出来てから、三代目の時(寛文年間・三三〇年前)で門徒の数が多すぎて、充分に手が届かぬことがあるとの理由で住職を二人置き、西が村上、東が斯波となって、今日に至っている。一つの寺で二人の住職は、いい時はうまくいく が、一つ間違えば難しいと思われていますが、昔の人はよく考えております。血縁関係をむすびまして、三代と離れてません。私の母は斯波から来ています。ですから私と先代の斯波とは従兄弟になります。その前はお祖父さんが東からと、そのようなことで、血族結婚をしています。長い間ずっとうまく行っていますが、何事をするのも一人では出来ません。住職二人が総代さんと相談をして取決めております。

輪番制でお寺の務めを

お寺の務めを執るのは、一年毎に東と西と交替します。今年一年私が務めると、来年は斯波の方へ渡しますが、毎日日誌を付けていまして、全部毛筆で書いています。それには会議の議事録とか、行事の内容を詳細に記入してます。例えば、世話人が集まり食事等をした場合、何処で何を、幾ら仕入れたというようなことを詳し く記入しています。お寺の会計にしても、会計担当の総代さんが全部処理して、お寺の使用料(葬式・演説会) 等についても、全部会計さんの手を通じて、収支を正確 にしています。堅苦しいようですが、そのようにしませんと続きません。しかし、何事か起ったときには、住職が二人ですから、非常に心強く、いろいろ相談してやれますので大変楽です。

半鐘について

いま打っている半鐘は、一七三三年に造ったものです。あれは御崎出身で、宝専寺の門徒の、米屋新兵衛という人が、大阪で成功されて寄付されたものです。その時このご夫婦は、唯赤穂ということだけを頼りに、この地を尋ねてこられ、市内の浄土真宗の寺を捜し回り、折方方面から塩屋へ、また御崎を尋ね歩いたが判明せず、途方にくれながら御崎から尾崎の村中を歩いていると、 大きな屋根が目に入り、ここにもお寺があることを知 り、駄目でもいいからもう一度と宝専寺へお寄りになった。先代の住職と会われて事情を説明され、こちらに米屋新兵衛という過去帳は無いかと尋ねられた。古い過去帳を調べていると、五代前に米屋新兵衛半鐘を寄付と記録されていた。これによりましていまから、二六一年前(一七三三年)に半鐘が寄附されたことが判明しました。ご夫婦は非常に喜んで帰られました。その後米屋さんは、何かと宝専寺を応援してくださいまして、親鸞上人の御影も本山でお受けになって、お寺へ寄付して頂いております。ある時には、親族一同が、全員念珠を懸けて、バスで来られたこともあり、半鐘の話しなどをされて、懐かしんでおられました。

手洗鉢について

手洗鉢のことですが、以前は、釣鐘堂のところにあったものを、現在の場所へ移しておりますが、あれは 二三〇年程前(一七六〇年)に山本さんという人が、寄付してくれてます。ほかのところへ寄付すると、よく失ってしまうことがありますが、お寺へ寄付して頂きますと、お寺の続く限り大切にされて半永久的に、保存され ています。そのようなことで、米屋さんも山本さんもお喜びになってます。

むすび

いろんなことが有りましたが、皆さんのご慈悲で、自 分たち門徒のお寺だと思って頂いて、建てた時のご苦労を偲び、開基以来四五〇年余り、ずっと護って来られたおおぜいの人々のご協力に、感謝しなければなりませ ん。宝専寺は、尾崎の宝です。部落の宝です。みんなで受け継いで、護っていかなければなりません。

質疑応答

Q 寺山にあった竜王山専福寺と竜馬山観音寺が一緒に なって竜王山宝専寺になったと聞きましたが?

竜王山専福寺が(当時は真言宗)竜王山宝専寺となっ たので、観音寺は関係ありません。


Q 竜馬山観音寺はどうなりましたか?

あれは如来寺の前身です。それは如来寺の半鐘が、竜馬山観音寺となっています。如来寺は以前は神宮寺といって神佛混淆でしたが、明治三年神佛分離で、八幡宮と如来寺になりました。


Q 観音寺の名称から本尊は観音さんだと思いますが、 この観音さんの行方はわかりませんか?

如来寺に観音さんはありません。竜馬山観音寺といっ ていた時代は真言宗でしたが、いまの如来寺は天台宗になっています。しかし竜馬山観音寺の半鐘が、如来寺にあることを思えば、如来寺と観音寺は、関係があるように思います。


Q むかし宝専寺で敬老会を開いていた当時の写真があ りますが、いつ頃のことでしょうか?

よくわかりませんが、むかし佛教婦人会が敬老会の関 係者に、手拭いを出していたことがあります。また昭和一〇年までの前の小学校での敬老会の写真は、お寺にもあります。いまでも小学校で敬老会は行なわれている。


Q 恵比寿、大黒の面が宝専寺にあるいわれは、どうで すか?

あのような面が、普通お寺にあるものではありません が、現在お寺にあるのは、民家では無くしてしまうと困るので、お寺へ寄付して置けば永久に保存されると考えて、永代経に寄付されたらしい。話しによると、むかし脇坂候に奉公に上がっていた娘さんが、お殿様の前で舞を舞い、褒美に恵比寿さんの面を頂戴しました。この恵比寿の面に後から大黒の面を、併せて作ったものです。この二つの面で、正月になると門付けをして廻っていた。この二つの面を持っていた人から、いろんな人の手を経て、宝専寺へ寄付されたものです。浄土真宗では、このような舞はありません。もし宝専寺の門前で、恵比寿舞をしていると、本山へ聞えたら怒られてしまします。このごろは保存会が出来まして、この舞を継承され ています。


Q あの面は左甚五郎の作と聞きますが...。

そのような話が持ち上ったときに、調べてもらいましたが、もし作者の名前が書かれていても、木地に書いているので、漆を剥がしてみませんとわかりません。この漆を取ると後から同じ色を出すことが難しいので、結局面を潰してしまう恐れがあるのでそのままになりまし た。従って、左甚五郎作かどうかわかりません。兵庫県の重要文化財になっているのは、歌と舞いです。面ではありません。事実あの面が、左甚五郎の作品であって、文化財に指定して頂ければ、有難いことと思っております。


Q いつ頃の作かわかりませんか?

よくわかりません。恵比寿、大黒といいますが、恵比 寿の面は、脇坂候より拝領してますので相当古いものと 思われますが、大黒の方は後から作ったものです。毎年正月に尾崎から始まって、各地を廻り、三月頃まで恵比寿、大黒舞いとして、市内の家庭を廻っていました。


Q 唄はいつ頃生まれたものですか?

唄は昔の唄があります。ずっと前に尾崎小学校の校長 先生をされた、御崎の田渕農三さんのお宅にあります。市の教育委員会が、田渕さんから移されたものを貰いましたが、それによると宝暦年間(一七五一~一七六三)のものでした。

編集後記

※ここからは、「ふるさと尾崎 No.1」の編集後記ですが、同時掲載させていただきました。 

この本は、尾崎公民館のふるさと雑学講座に来て頂い た講師の話をまとめたものです。上荷については、尾崎田中在住の長島新作氏のお話と、赤穂の民俗第五巻を参考にして編集しました。なにぶんにも五十数年前のことで、記憶も定かでない部分もあります。当時尾崎の上荷は、二十余軒程あったらしいが、氏名が判明しません。 金谷さん(八)が一番多く、次に宮本さん(三)、上島さん(三)、上杉さん(二)、門さん(二)、沼田さん (一)、上田さん(一)、長島さん(一)。この人たち が尾崎の「上荷さし」として東浜塩田を支えていた。この「上荷さし」の雄姿が、東浜塩田から消えてから五十五年経過しており、経験者も少なくなって尾崎の人からも、忘れられようとしていますが、願わくば、後世に語り伝えて欲しい。

宝専寺については、西院の前住職村上順教氏の話をま とめました。この寺は、尾崎の真ん中に在る関係で、地区民の便利を図り、三方の山門は閉じず夜通し境内を自由に通行出来るので、「通り抜け門」としても知られています。また尾崎小学校少年野球団の六年生の希望者が、昭和五一年よりずっと一日も休むことなく、自発的に二人ずつ鐘つき奉仕を続けて、この鐘の音を合図に、 遊んでいる子供は家へ帰りましょうと呼びかけている。
古い調査ですが、昭和四九年七月一日本願寺出版協会の調査によりますと、本願寺派の勢力分野は左記のようです。


直属寺院 別院 四八 教堂 一七
一般寺院 一〇、三九六
住職 男 八、九五八人 女 一〇七人
前住職 男 七五三人 女 五六人
副住職 男 三九四人 女 四一人
僧侶計 二一、七九一人
壮年会 一、〇二九
仏教婦人会 四、八九四
老人会 一、八三一
学園
日曜学校 五〇八校
保育園 六〇六校
幼稚園 四八八校
小学校 二校
中学校 一二校
高等学校 二五校
短期大学 一〇校
大学 四校
大学院 二校

これを機会に、尾崎の事について少しでも知ることが できたらとまとめましたが、一読下さい。 (一九九四年三月)



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